校長室より

2025/10/20
世界一美しい野菜「カリッコリ―」
「カリッコリ―」は野菜です。「カリッコリ―」は、「ドラゴンスパイラル」や「ロマネスコ」という名前でもよばれています。「世界一美しい野菜」と言う人もいるくらいに見た目が個性的なので、実際に一度見てしまうと忘れることができないと思います。

生徒の皆さんは、「カリッコリ―」と聞いてどのような姿の野菜を想像しましたか。そして、「カリッコリ―」はどのような食感でどんな味がするのでしょうか。

「カリッコリ―」は、名前の通り「カリフラワー」と「ブロッコリー」とが受粉してできた野菜です。つまり、「カリフラワー」+「ブロッコリー」=「カリッコリ―」なのです。農家の方がカリフラワーを栽培している畑の隣で、ブロッコリーを栽培していたら、偶然にできてしまった野菜だと伝えられています。

ところで、「ダイコン」に「ニンジン」を受粉させても種子ができないので、「ダイコン」+「ニンジン」=「ダイジン」のように新しい野菜はできません。それでは、なぜ「カリフラワー」と「ブロッコリー」から「カリッコリ―」ができるのでしょうか。

実は、「カリフラワー」と「ブロッコリー」から「カリッコリ―」ができるのは当たり前のことなのです。なぜなら、「カリフラワー」も「ブロッコリー」はもともと同じものなのです。もっと簡単にいうと、青汁の原料に使用されることが多い「ケール」、お好み焼きでたくさん使う「キャベツ」、お正月に飾る「葉ボタン」、そして「カリフラワー」と「ブロッコリー」はすべて学名が同じです。

つまり、人類がはじめて「キャベツ」のようなものに出会ったときは、「ケール」とよばれる植物しかありませんでした。食用として「ケール」を栽培しているなかで、たまたま葉っぱが丸く曲がっていたものを発見し、その種子だけを選んで栽培を繰り返すうちに、丸く結球した「キャベツ」になったのです。同様に、つぼみが比較的多くできたものの種子をだけを選んで栽培を繰り返すうちに、「ブロッコリー」となり、緑色のつぼみである「ブロッコリー」の中から、たまたまつぼみの色が白いものを発見して「カリフラワー」と名付けたのです。それぞれの姿形は異なっていますが、全部が兄弟関係なので、受粉して種子ができるのです。

このように、大量に収穫できるものや栽培に適したものだけを、人類がくり返し選んで育て続けてきたことで、もともと自然界にあった小さな植物の形や大きさが変化して、この世に「野菜」とよばれるものが誕生したのです。

お店にならんでいる美味しそうな「野菜」というものが、人類がいなければ存在しなかったと考えると不思議な気持ちになりませんか。中学生時代は大切な青春の時間です。自然界から「野菜」というものが誕生したように、「よいなあ」と思えることをずっと追究していくことで、少しずつでもよい方向へ変化していくものです。

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2025/10/14
水道の蛇口ハンドルに秘められた工夫
手を洗おうとして学校の水道の蛇口ハンドルを回すとき、かたく閉まりすぎていて、開けるのに困ったことはありませんか。

私が小学生だった頃、手を洗い終わったら水道の蛇口をできるだけかたく閉めるということが当たり前でした。なぜなら、「水を大切に! ムダのないようにしっかり閉めよう!」というポスターが貼ってあったからです。だから、手洗い後にみんなが力まかせに閉めるので、手を洗いたいときには思いっきり強く回す必要がありました。そのような私たちを見て、担任の先生がおっしゃった言葉を今でもよく覚えています。

「水道を力まかせに閉めている人は、算数や理科がわかっていない人たちだ。」

算数や理科がわかっていないとは、いったいどういう意味なのかと、続きを聞きもらさないようにしました。すると先生は、「蛇口(ハンドル)の直径は計算されて作られている。園児からお年寄りまで、たくさんの人の回す力を測って、どの年齢の人でも回せるように計算されている。ちょうど『てこの学習』で習ったように、みんなは普通の力で軽く回せば、根元の栓が強くしっかり閉まるようになっている。」と、詳しく説明してくださいました。つまり、無理せずに普通の力で道具を扱えば、ちゃんと目的が果たせるのです。そのお話を聞いてから、私たちは手を洗い終わったら、無理せずちょうど良い加減に、水道の蛇口を閉めるようになりました。

水道の蛇口ハンドルのような道具は、大きな輪と小さな輪がくっついたもので、輪軸(りんじく)とよばれています。輪軸は、てこの原理を利用した道具の一つであり、小さい力を大きくすることができるので、ドアノブや自動車のハンドルなど、さまざまな場所で使われています。

ところで、水道の蛇口には、「レバーハンドル」という形のものもあります。てこの原理で上下あるいは左右に動かすだけでよく、操作が簡単で握力の弱い人でも扱いやすいという長所があります。また、ボタンを押すと、一定時間だけ自動で流れ続けるような「ワンプッシュ」という形もあります。そして、手をかざすだけで自動的に水が出る「タッチレス」という形さえあります。

これらの工夫は、ユニバーサルデザインとよばれていて、年齢だけでなく、性別や障害の有無などにかかわらず誰もが使いやすいように、最初からデザインされたものです。単に高齢者や障害者だけを対象とするバリアフリーの考え方を発展させて、すべての人が快適で安全に利用できるように設計する考え方がユニバーサルデザインです。

もうすぐ、障スポ2025が開幕します。ユニバーサルデザインという視点をもって競技会場からも学び、これから出会う選手の皆さんをあたたかく迎えましょう。

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2025/10/08
打出中 ラベンダー ガーデン
生徒の皆さんは、理科の授業で「アンモニアのにおいを調べるときは、手であおぐようにしてにおいをかぐ」と習いました(1年生はこれから学びます)。しかし、なぜあおぐのかは、教科書やどの参考書にも書かれていません。

有毒な気体から命を守る対策として、「手であおぐようににおいをかぐ」のはなぜですか。「あおぐ操作」を行うことで、なぜ安全ににおいを調べることができるのでしょうか。

実は、手であおぐことによって、周囲にあるたくさんの空気と混ぜて、うすめているのです。だから、「手であおぐようにすることで、周囲の大量の空気とかき混ぜて、におい(毒)を薄めている」が答えです。例えば、しょうゆはそのままでは飲めないけれど、たくさんの水とよくかきまぜて薄めると飲むことができるようなものです。理科の授業では、アンモニアのような有毒な気体をあえて扱うことを通して、危険から身を守る方法を学習しています。また、アンモニアや塩素、硫化水素などのにおいを体験して、「いやなにおいと感じるものは毒である」ことも同時に学んでいます。

いやなにおいがするものには、火山ガスや腐った食べ物などがあります。これらのように、いやなにおいがするものは、体に害をなすものや食べてはいけないものです。なぜなら、私たち人間は、自然界にある体に害をなすものは、いやなにおいと感じ、体に良いものは良いにおいと感じるような「においで判別する能力」を、原始時代からの長い進化の中で身に着けてきたからです。したがって、人工的につくられたものや、人類があまり経験してこなかったものについては、においがなかったり、とても良いにおいがしたりしても、命を奪うような危険なものがあることも知っておいてください。

さて、打出中の校舎と体育館の間の斜面に、ラベンダーの木が156株も植えられています。これらは地域の方から贈られたもので、昨年からさし木をして少しずつ数を増やしていただいています。また、花と緑のボランティアの方々がラベンダーの周辺の雑草を抜くなどの世話をしてくださっています。

花がきれいで常緑。さらにハーブとして利用できるのでラベンダーは人気の植物です。ラベンダーのにおいには、リラックス効果や殺菌作用があるので、ポプリやサシエ、石けんや化粧品などに加工されています。

ラベンダーの花壇のそばを通りがかった生徒から「なんか良いにおいがする」、「紫色の花がきれい」という声が聞かれました。ラベンダーは高温多湿をきらうので、枯れてしまわないかと心配しましたが、暑い夏に涼しげな花をたくさん咲かせ、だんだん大きく生長してくれました。ラベンダーの木が根づいて、打出中名物の1つになるように、みんなで見守っていきましょう。

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2025/10/03
名月
生徒の皆さんはムーンロード(月の道)を見たことがありますか。ムーンロードとは、満月の光が水面のさざ波に反射して長くのびた細長い光の道のことです。

私は学生のときに観測船で沖に出て、水温や湖流を調べたことがあります。そのとき日没と同時に満月が昇ってきて、湖面にムーンロードがかかりました。周囲の湖面が群青色から黒色へと変わっていくにつれて明るさを増していくムーンロードをみんなで見て、感激したことをはっきり覚えています。

ところで、「名月」と書けば「秋(旧暦8月15日)の満月」のことを指します。満月は1年間に12回ありますが、「名月」は1回だけです。

今年の「名月」は、10月6日(月)に見られます。紫式部が湖面(瀬田川)に映る「名月」を見て「源氏物語」の構想を練った場所として伝えられている石山寺では、今年も「名月」にあわせて秋月祭が開催されます。秋月祭は、5日と6日の夕方から開催され、今年もさまざまな風流な催しが企画されています。また、石山寺からながめる「名月」は近江八景のひとつ「石山の秋月」に数えられ、歌川広重の浮世絵にも描かれており、国内外で広く知られています。

さて、秋の空は高くすみきっているので満月がきれいに見えます。そのことからか、「名月」を詠んだ俳句も数多くあります。その中でもとくに、次にあげる松尾芭蕉の俳句が有名です。ところで、松尾芭蕉のお墓は打出学区の義仲寺にあり、偉大な俳跡として多くの人が訪れています。

「 名月や 池をめぐりて 夜もすがら 」

松尾芭蕉がこの句で「名月」と詠んだ月は、空の月なのでしょうか、それとも池に映った月なのでしょうか。秋の満月を一晩中見ているという情景を想像すると、いろいろな解釈ができておもしろいと思います。

松尾芭蕉は「名月」を深く鑑賞する目的のために、古代から和歌に詠まれた「名月の地」をめぐる長い旅に出て、2つの紀行文を書いています。今に例えると、アニメを鑑賞した人がもっと深い共感を得るために、アニメが設定された場所を訪れるアニメの聖地巡礼の旅≠してブログを書いているようなものなのですが、松尾芭蕉は俳句を通して、時代をこえてさまざまな「名月」の情景を伝えています。

「名月」を見て感動した体験から多くの名作が生まれています。そのような景観が大津にはあふれています。中学生時代は大切な青春の時間です。身近なところにもある古の人たちが感動した秋の景観をじっくりと味わってみてはいかがですか。

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2025/09/29
目をあわせることができるのは人間だけ
眼球には白目と黒目の部分があります。黒目の部分で色がついているところは「虹彩(こうさい)」とよばれ、「虹彩」の色は、紫外線を防ぐメラニン色素が多ければ黒や茶色、黄色に、少なければ青や灰色、赤色になり、環境や年齢によっても変化することがあります。だから、黒目の部分といっても、青色だったり赤色だったりするので、眼球の白目以外の部分を黒目とよぶことにします。

ところで、人と話すときに相手をよく見ようとして黒目を合わせて視線を向けます。生徒の皆さんは、相手をしっかりと見て話をしていますか。

私が小さい頃、相手への黒目の合わせ方について、母親から実演を交えて教えてもらったことがあります。その教えとは、「ふり向くときには必ず先に相手に顔を向けてから黒目を相手に合わせなさい」というものでした。そのようにしないと、一瞬でも横目で相手をにらむようになってしまうので、相手に嫌な思いをさせてしまうかもしれないからです。視線の向け方については、このようなささいな瞬間でも、その人の心づかいが表われていくものかもしれません。

ところで、相手が目をあわせて話してくれないとき、相手が自分を避けていると思いこんでしまうことがあります。目を合わせてくれないときは、相手が他のことに集中していたり、緊張やはずかしさを感じていたり、疲れていたりするなど、様々な状況が考えられますが、それでもやはり目を合わせて会話することは大切だと思います。なぜなら、黒目で見つめることで、誠実に相手に向き合う気持ちが伝わります。また、自分の言葉に自信があることの表れにもなります。このように、黒目を合わせて相手に視線を向けることによって、自分の感情や意図を伝え、コミュニケーションを円滑にすることができます。しかしその一方で、じっと見つめすぎると、プレッシャーや不快感を与えてしまうこともありますので注意も必要です。

さて、犬の目を見ると黒目です。眼球の白目の部分は見えません。同じように、牛や馬の目を見るとやはり黒目です。カメやヘビも黒目です。ネコやウサギ、魚や鳥も白目の部分は見えません。つまり、すべての動物の中で人間だけが、普段から白目と黒目の両方の部分を見せているのです。これはいったいなぜなのでしょうか。

実は、人間以外の動物は、わざと眼球の白目の部分が見えないようにしているのです。白目の部分が見えると、遠くからでも黒目がどちらを向いているかがばれてしまうのです。今どこに注目しているかという生死に関わる情報を相手にさとられてしまっては生きていけないのです。一方、人間はこの白目の部分によって黒目をきわ立たせて相手に意図を正確に伝えています。人間だけが、あえて視線の向きを明確に伝え、感情や意図を読み取り合うコミュニケーション機能を発揮することで生きていく道を選んだのです。

中学生時代は大切な青春の時間です。「目は口ほどに物を言う」ということわざのように、視線を交わすような対面のコミュニケーションには、文字や言葉以上に感情や意図を伝えてくれるというよさがあります。

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2025/09/22
ヒガンバナの里をつくる
毎年、お彼岸(ひがん)の頃になると、ヒガンバナの花が一斉に咲き出します。ヒガンバナが群生して開花している様子は、まるで真っ赤なじゅうたんを敷いたように見えます。最近ではマンガ「鬼滅の刃」の作中に登場するので一層関心が高まっています。

ヒガンバナは、堤防や田畑のあぜ道に生えています。一般的な赤色のヒガンバナは種子を作ることができず、球根でしか増えることができません。そのため、種子が運ばれて勝手に増えないことや、増えた球根が土を固めることが農家に好まれて、堤防や田畑のあぜ道に植えられたのです。また、ヒガンバナは有毒なので、堤防やあぜ道に穴をあけてしまうモグラよけにもなります。過去には、球根を水にさらして毒を抜き、飢饉の際の非常食として利用することもあったそうです。

街角を散策しているときに、「なぜこのような宅地にヒガンバナが…」と不思議に思ったことはありませんか。例えば、合同庁舎から打出中に上ってくる道の土手です。しかも、そのような場所では、なぜか一直線に花が咲かせていることがほとんどです。また、四角形の田畑の一辺のあぜ道だけに、ヒガンバナが花を咲かせていることに気づいて、「なぜ田畑の残りの3辺にヒガンバナが生えてないのだろうか」と、疑問に思ったことはありませんか。

ヒガンバナの花が咲いている場所の昔の様子を考えてみると、その答えが見つかります。戦後、農地の宅地への転用が進みました。また、大型機械の利用や水利用を効率化するために、田畑は四角形に区画整理され、小さく不整形だった農地が集約されました。

以上の理由で、街角で「なぜこんな場所にヒガンバナが…」と不思議に思うようなことがあっても、もともとその場所は田畑だったのですから、宅地に転用されてからも当時のあぜ道に沿って花を咲かせていたのです。また、田畑の一辺のあぜ道だけにヒガンバナが花を咲かせていたのは、区画整理されたときに新しく作られたあぜ道には、当然、ヒガンバナが植えられていないから生えていないのです。

さて、「ヒガンバナの名所」と検索すると、滋賀県では高島市の桂浜園地と出てきます。琵琶湖を背景に咲いている特別な景色が楽しめます。しかも、湖岸一帯に1万本上のヒガンバナがびっしりと群生しているので、秋を満喫しようと多くの方々が訪れています。

なぜ、桂浜園地にヒガンバナが群生しているのかを地元の人にたずねてみると、ヒガンバナの生育にあわせた時期に、自治会で草刈りを行っているからだそうです。ヒガンバナは花を咲かせた後に葉を広げます。つまり、他の植物が枯れるのを待ってから生長し、冬の間に光合成をして球根に栄養をたくわえ、春先に枯れて秋を待つのです。このことから、「ヒガンバナの葉に日光がよく当たるように、草刈りはヒガンバナの花芽が出る前のタイミングで行おう」と自治会で決めて、美しい景観を守るために、草刈りの時期にちょっとした工夫をされておられるのです。

中学生時代は大切な青春の時間です。ヒガンバナの里とよばれるほどの美しい景観を保全されている自治会のように、目的を共有して協力していくことが大切です。

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2025/09/16
「思ひ草」によせて -恋の歌か信頼の歌か-
 七草といえば、「春の七草」を連想する人が多いですが、秋にも「秋の七草」があります。「春の七草」は、新芽を食べることで病気や災いから守られることを願うものですが、「秋の七草」は、秋を彩る美しい草花を見て楽しむものです。

「秋の七草」に登場する「尾花」は「ススキ」の古名です。ススキの花穂の形が動物の尾のように見えることから、このように名づけられています。万葉集にも尾花を詠んだ和歌がたくさんあり、次の和歌では、尾花が「さらさら」と風になびく音を、「いまさら」とつなげて表現しています。

「 道の辺(へ)の 尾花(をばな)が下の 思ひ草 今さらさらに 何をか思はむ 」

およそ4,500首の和歌が収録されている「万葉集」の中で、この一首だけに「思ひ草」という植物が登場します。生徒の皆さんは、「思ひ草」と聞いてどのような植物の花を想像しますか。

「思ひ草」は、「ナンバンギセル」の古名です。高さは20センチ程度で、光合成に必要な葉がなく、すらっと伸びた褐色の茎の先に筒状のピンク色の花だけを、やや下向きの角度で一輪だけ咲かせます。その特徴的な姿を一度は見てみたいと、たいへん人気のある花でもあります。
「思ひ草」は、ススキがちょうど花穂を出し始める時期に花を咲かせます。一年草なので毎年同じ場所で見られるとは限りませんが、ススキの根元を根気よく探していくと、意外とよく見つかるものです。

さて、紹介した和歌の一般的な現代語訳は、「道端の尾花(ススキ)の根元に寄り添って咲く思い草(ナンバンギセル)のように、今さら何を思い迷うことがあるでしょうか」とされています。「思ひ草」のピンク色の花の姿は、うつむいてなにやら思わしげに頬を赤く染めているように見えます。そのため、恋に物思う人の姿を連想させ、愛しい人を陰ながらに思いながら詠まれた歌だと、一般的には解釈されています。

本当にそうなのでしょうか。

私がはじめて「思ひ草」に出会ったのは、中学生のときです。野道でたまたま特徴的な花を見つけたので、家に持ち帰って育てられないかと土を掘ってみました。すると、「思ひ草」の根は尾花(ススキ)の根と固くつながっていたのです。

和歌が詠まれた当時は今以上に自然と親しく生活していたと考えれば、「思い草と尾花が地下でつながっていることを誰でも知っている」ということを前提にしてこの歌が詠まれたと考えた方が自然です。そのように考えると、一般的な解釈ではなく、この歌には「見えないところで心はしっかりつながっているという信頼が込められている」と思えるのです。

「 道の辺(へ)の 尾花(をばな)が下の 思ひ草 今さらさらに 何をか思はむ 」

中学生時代は大切な青春の時間です。ちょっと立ち止まってよく考えてみる姿勢を大切にしてほしいと思います。

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2025/09/08
短歌や俳句の「月」は、三日月か満月か
昨日、日本各地で皆既月食を見ることができました。大津の夜空でも満月があっという間に欠けていく様子を見ることができました。今回の皆既月食を見逃した人は、2026年の3月3日にも見ることができますので、楽しみにしていてください。
さて、月食が起こるのは、地球のまわりを回る月が、太陽から見て太陽、地球、月の順に一直線上に並ぶことにより、月が地球の影に入ってしまうためです。このとき、地球の方が月よりも直径で4倍も大きいので、コップの大きさの「満月」をカレー皿の大きさの「地球の影」が隠していくような月の満ち欠けを見ることができます。このことを意識してなかった私がはじめて月食を見たときは、三日月のようで三日月に見えない月の満ち欠けの形の変化にたいそう驚きました。

ところで、皆既月食の日のように、太陽から見て太陽、地球、月の順に並ぶときは、太陽に照らされて輝いている月の形は、地球から見て「満月」となります。つまり、「地球から見て、太陽と月が正反対の方角にあるときは、月は必ず『満月』の形になる」のです。

万葉集に収録されている柿本人麻呂が詠んだ「 東の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ 」という短歌はとても有名です。たいていの本の現代語訳では、「東の方に朝陽が昇ってくるので赤くなっているが、後ろを振り返って(西の方を)見ると、月が沈もうとしている」とされています。

ところが私はこのような現代語訳が残念でたまりません。なぜなら、柿本人麻呂が伝えたいのはそんな程度の情景ではないからです。生徒のみなさんはもうお分かりだと思いますが、この歌の月は、太陽と月が正反対の方角になるので「満月」に決まっているのです。柿本人麻呂は真っ赤な東の空と、「満月」が明るく輝く西の空に感動しているのです。

また、与謝蕪村の有名な俳句「 菜の花や 月は東に 日は西に 」の現代語訳は、「一面に広がる菜の花畑に、月が東から昇り太陽が西へ沈んでいく」とされていますが、私はこのような現代語訳が残念でたまりません。

生徒のみなさんはもうお分かりだと思いますが、この句の月も、太陽と月が正反対の方角になるので「満月」に決まっているのです。与謝蕪村は、「満月」と夕日が照らす菜の花の情景に感動しているのです。

この短歌や俳句は、味わう人に、作品の真意をくみ取るだけの教養があるかを試しているのです。今よりもっと自然が身近にあった昔の人は、この短歌や俳句を味わうときに、当然、「満月」を思い浮かべていたに違いありません。

中学生時代は大切な青春の時間です。たくさんの知識を吸収することで教養を身につけて、作品の真意に気づくことができるようになれると、もっと深く豊かに味わうことができると思います。

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2025/09/01
ウサギとカメの教訓
イソップ童話には「ウサギとカメ」、「アリとキリギリス」、「肉をくわえたイヌ」、「北風と太陽」などがあり、動物や無機物が擬人化されて人間のように行動する感情を持つキャラクターとして描かれています。それぞれの物語の中で人生の教訓や道徳的なメッセージを伝えられています。
「ウサギとカメ」は、ウサギに歩みののろさをバカにされたカメが、山のふもとまでかけっこの勝負をする物語です。かけっこを始めるとウサギはどんどん先へ進み、カメを待とうと余裕で居眠りをします。その間にカメは着実に歩み、ウサギが目を覚ましたとき見たものは、先にゴールしたカメが大喜びする姿でした。

この童話の教訓としては、「努力は裏切らない」、「能力があっても油断は禁物」というのが一般的だと思います。しかし、本当にそうなのでしょうか。

私も昔、絵本を読み聞かせていただきながらそのように教えられてきたのですが、カメが居眠りをするウサギの横を通り過ぎていく場面を想像して、「どうしてカメはウサギを起こしてあげなかったのだろう?」と疑問を持ち、「カメは薄情だなあ」と、カメが大喜びする場面を素直に喜ぶことができませんでした。
ところが、「もしかしたらカメは居眠りをするウサギに気づかなかったのではないか? カメは違うところをずっと見ていたのではないか?」と考えてみると、この童話のカメは優しくて、物語のつじつまも合うのです。

つまり、ウサギとカメは「見ているところが違った」ということです。

ウサギはカメを見ていたからノロノロと歩むカメに油断をしてしまったのです。ではカメは何を見ていたかというと、ゴールを見ていたのです。

だから居眠りをしているウサギに気づかないし、ゴールを夢見て、ただひたすらに歩んだのだと思います。したがって「ウサギとカメ」の童話の本当の教訓は、「競走相手に惑わされず、自分の目標をしっかり見つめることが大切である」ということではないかと思うのです。

人生は大海にこぎ出す船のようなものだといわれますが、どこへ向かうのかをはっきりさせないと船をただ浮かべているだけになります。ゴールをちゃんと定めていないと、カメを見ているウサギになりかねません。

ところで、今年度の中学3年生を対象とした全国学力学習状況調査において、「将来の夢や目標を持っていいますか」という問いに全国で68%の生徒が持っていると答えましたが、32%の生徒がまだ持っていないと答えています。中学生時代は大切な青春の時間です。まだ持っていないと答えた人は、なりたい自分を想像して、将来の夢や目標について考えてみてはいかがですか。

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2025/07/30
砂浜の砂はだれがとったのか
昔、サツマイモを収穫している絵を見て、地面がピンク色で描かれていたことに驚いたことがあります。「幼稚園児の感性は豊かだなあ」と感心しながら他の絵を見てみると、なぜかどの絵も地面はピンク色やクリーム色で描かれていたのです。地面といえば黒色で塗ることが当たり前だった私は納得できず、受付をされていた園長先生に「園児が地面をピンク色で塗るのはなぜですか」とお聞きしました。すると、園長先生は不思議そうな顔をされて、「畑の土は白っぽいピンク色をしているので、地面をピンク色で描くことが普通だと思っています」とおっしゃられたのです。園児たちが描いた絵の色使いは正しいのです。

よくよく考えてみると、土地の地面の色は灰色がかった黒色の地域もあれば、ピンク色がかった白色の地域もあります。また、湖岸でも灰色がかった黒砂の砂浜や、ピンクがかった白砂の砂浜が見られます。湖岸をどんどん歩いていくと、砂浜の色の境目に出くわすこともあるそうです。このように土地や砂浜の色に違いがあるのは、琵琶湖を取りまく様々な河川が運んできている土砂の質が異なっているからです。このような色の違いは、河川の上流にある山地の地質を反映しているのです。

さて、春先に湖岸でよく目にするのは、ダンプカーで砂浜に大量の砂を運びこんでいる風景です。砂浜の面積が毎年少しずつ減ってしまうため、大量に砂を補っているそうです。

生徒の皆さんは、湖岸の砂が毎年なぜ減ってしまうのだと思いますか。おそらく湖流や激しい波が砂浜をけずっていくのではないかと考えたのではないでしょうか。もちろんその通りなのですが、砂が減ってしまう最も大きな要因は、砂がうばわれる量よりも与えられる量の方がはるかに少ないからです。

つまり現在では、河川が湖岸にほとんど砂を運べていないのです。一方で、川底にたまった土砂を取り除いたり、砂防ダムを築いて山地からの土砂をくいとめたりする治水工事のおかげで、災害から家や田畑が守られています。このように細やかに河川を管理してきた方の努力によって、安心な暮らしが成り立っているのです。

琵琶湖博物館では、「川を描く 川をつくる」という治水に関わる企画展示が行われています。また、南郷洗堰の水のめぐみ館ではとくに瀬田川の治水について学ぶことができます。中学生時代は大切な青春の時間です。夏休み期間を利用して大津市や滋賀県の見学施設に足を運んでみてはいかがですか。

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